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妙寿寺 (世田谷区)[みょうじゅじ]
妙寿寺(みょうじゅじ)は、東京都世田谷区北烏山にある寺院。法華宗(本門流)に属し〔、当初は「妙感寺」と号した〔。創建当時は江戸谷中にあり、1662年(寛文2年)に武蔵国葛飾郡猿江村に移転した後に関東大震災により当地に再移転した〔妙寿寺は関東大震災によって過去帳や文献などを失っているため、歴史の詳細について不明な部分があるという。〕〔〔〔。妙寿寺は、通称「烏山寺町」と呼ばれる26の寺院が立ち並ぶ地域に最初に移転した寺院の1つである〔〔寺町通り 烏山仏教会ウェブサイト、2013年11月23日閲覧。〕。2008年(平成20年)には、妙寿寺客殿(旧蓮池藩鍋島家住宅)が世田谷区指定有形文化財となっている〔〔。 == 歴史 == 妙寿寺の歴史は、江戸時代の寛永8年(1631年)に始まっている〔〔〔。創建は本光院日受(後に鷲山寺16世となる、慶安元年7月28日寂)で、当初は「妙感寺」と号した〔〔『烏山寺町』132-135頁。〕〔。創建当時は江戸谷中清水町(現在の台東区池之端)にあったが、1662年(寛文2年)に寺地が寛永寺の火除用地として幕府から上地を命ぜられた〔〔。 2世の信入院日崇(後に妙蓮寺第3中興20世となる、元禄2年2月4日寂)は学識と人徳を備えた高僧として知られ、その人柄に惹かれて帰依する信徒が多かったと伝わる〔『烏山寺町』86-88頁。〕。日崇は檀家の人々と協力して、武蔵国葛飾郡猿江村(現在の江東区猿江)に寺を移転した〔『御府内備考続編』(『烏山寺町』巻末に参考として収録)で、「日受上人が猿江村に寺を移転した」旨の記述があるのは誤りとされる。〕〔〔。移転に際して寺の名を「妙情寺」と改めたが、後に猿江村の土地を買い取って寺院のために喜捨した小松昌安という医師の母の法名妙寿尼に因んで、再度寺号を「妙寿寺」と改称した〔〔。猿江村への移転後は猿江稲荷神社の別当寺を兼ねることなり、村民から深い尊崇を受けた〔〔〔猿江神社|猿藤太の伝説、江東区猿江の神社 猫の足あと、2013年11月23日閲覧。〕。1691年(元禄4年)には、稲荷神社を合併して寺域を拡大した〔。妙寿寺では1世本光院日受を開基、2世信入院日崇を開山として扱っている〔〔。 妙寿寺は1923年(大正12年)の関東大震災で大きな被害を受け、日蓮真筆とされる「御本尊」(十界曼荼羅)及び日蓮像を除いたほとんどの什物や過去帳、文献などを焼失し、本堂などの堂宇もすべて失った〔〔〔。その年の12月に、東京府北多摩郡千歳村大字烏山字大野久保(現在の世田谷区北烏山5丁目)に土地を購入し、1924年(大正13年)に墓地の新設許可、1927年(昭和2年)には寺院の移転許可を受けている〔。同じく1927年(昭和2年)には東京市麻布区飯倉狸穴町(現在の港区麻布台2丁目)にあった蓮池藩鍋島家の建物を譲り受け、仮本堂を兼ねた庫裏として移築した〔〔。さらに妙寿寺と同じく日崇開山と伝わる本所吾妻橋の清雄寺から譲り受けた建物を仮本堂とし、1929年(昭和4年)に移転が完了して落慶式を執り行った〔この仮本堂は、1984年(昭和59年)に新本堂の建設に伴って解体されている。〕〔〔〔。 世田谷区北烏山2丁目から6丁目一帯には、さまざまな宗派の寺院が集まった「烏山寺町」と呼ばれる地域がある〔〔。烏山寺町には、1923年(大正12年)から1955年(昭和30年)にかけて合わせて26の寺院が移転してきて、緑豊かな環境と寺院の建築が調和を見せる街並みが形成された〔〔歴史散策 烏山仏教会ウェブサイト、2013年11月23日閲覧。〕。妙寿寺は烏山寺町に最も早く移転した寺院の1つである〔〔。2008年(平成20年)12月25日、客殿が世田谷区指定有形文化財となっている〔〔〔『せたがやの文化財』37頁。〕。
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